真理は一つじゃない 〜信念、価値観、経験から生まれる自分だけの真実〜

2025/03/17

価値観 学び

t f B! P L

こんにちは、emuです。

スピリチュアルな世界に興味を持つようになって、「真理」という言葉をよく見聞きします。

でも、情報の波に乗って「真理」を説く人がいれば、多くの情報に振り回されてしまう人もいたり、「真理なんてあるのかな?」なんて思ってしまうこともあるんですよね。

真理の捉え方

「真理」は、哲学や宗教、化学の分野などで、 それぞれの視点から探求されています。

特に、宗教的な悟りの概念と結びついた「絶対的なもの」と感じるのは、私だけじゃないかもしれません。

もし「A.真理は絶対的なものだ」「B.真理は自分で探求するものだ」「C.真理なんてものはない」のどれかを選択するなら、私はBを選ぶと思います。

なぜなら、「真理は絶対的なものだ」という考え方は、確かに私たちに確固たる信念やはっきりとした道筋を与えてくれるけれど、他の考え方を排除するという弊害を生みかねないからです。

それに、真理という言葉を使って支配される側面もあって、不安をあおられたり、特定の思想や行動に促されてしまうこともあると思うんですよね(教祖様的な)。

「真理なんてない」というのは、探究すべき謎がなくて、面白みに欠けるという理由でナシなんですが(笑)。

対して、「真理は自分で探求するものだ」という考え方は、個人の価値観を尊重して、多様な答えを受け入れる柔軟性を与えてくれます。

まぁその反面、答えが見つかる保証はなくて、一生をかけて探求し続ける場合もあるけど、「自由と探求」を重視している私は、こっち派(B)かなと。

どれを選ぶとか言ってる余裕があるうちは、特に真理と向き合わされるほどの状況にないのかもしれません。

何にせよ、これらの多様性を理解することは、他者の考えを尊重し、異なる価値観を受け入れる上で重要なんでしょう。

矛盾する真理

私は「人生は創造できる」と信じながらも、「人生はコントロールできない」という矛盾を感じることがあります。

これは、真理が常に一貫したものではなく、私が置かれた状況や考え方によって、シーソーのように傾くことを示しています。

この矛盾を排除しようとするほど視野は狭まって、「どっちが正しい」なんて、延々と終わらない思考ゲームの沼にハマるのかもしれません。

相反する要素を抱えながら生きるのは、人間にとって自然なことなんだと思えば、自分自身を責めることも、相手を批判することもなくなるのかも。

真理か信念か価値観か

「真理」は、「個人的な信念」や「長年培ってきた価値観」だと捉えることもできます。

例えば、「調和が全てである」という真理は、私の魂の奥深くに根付いているような感覚があります。

それは、これまでの人生体験で刻まれた激しい感情と紐づいたものであり、家系的なものでもあるんです。

一方で「田舎暮らしこそが幸せである」という、時代や社会が生み出した価値観は、ひとつのブームのようなものだと言えます。

ひょっとしたら、次は「海外移住こそが幸せである」に置き換わる可能性もありますよね。

「真理」「信念」「価値観」どの枠にはまっているとしても、自分にとって疑いようもないものなら、それはある意味「真理」と言えるのかもしれません。

真理という幻想から目を覚ます

真理を手に入れたような気持ちになっても、そこに自分自身の経験や学びが伴っていなければ、単なる幻想に過ぎない。

そう思わせてくれたのは、『鋼の錬金術師』でした(またアニメネタだよ 笑)。

例えば、この『鋼の錬金術師』では、主人公の兄弟が「錬金術さえあれば何でもできる」という真理に囚われていたせいで、悲劇的な結果を招くところからストーリーが始まるんですよね。

大切なものを取り戻すために、いろんな葛藤を抱きながら学んでいくんですが、人生における様々な経験は、私たちに破壊と再生をもたらして、独自の真理を見つけるきっかけになるんだと思いました。

私の場合は、「人生創造には自己理解が不可欠だ」という自分なりの真理を得たと思ってるんですけど、これは絶対的なものではなくて、今後、何らかの壮絶な体験の度に変化し続けるのかもしれません。

未来の自分が、一体どんな真理のもとに生きているかなんてわからない。だからこそ、終わりのない探求こそが、私を成長させてくれるんだろうな、なんて思うわけです。

「我の真理」VS「彼の真理」

もし、お互いの真理がぶつかる時は、どうなるのか。

それは、「彼の真理」によってひっくり返されるわけでも裁かれるわけでもなく、結局は「我の真理」によって衝撃的な一撃を、自ら食らうんだろうなと思います(笑)。

自分が放ったものは、自分に返ってくるんです(引き寄せの法則)。

自分の真理に囚われてしまうのは、さっきの『鋼の錬金術師』の主人公じゃないけど、誰にでもあることだと思うんですよね。「絶対」は、無いんですもん。

真理も「ひとつのステージのボス」に過ぎなくて、生きている以上はステージを上げていかなきゃならない。「絶対」を創り上げてるのは、自分自身なんだから、実は私たち自身が「ラスボス」なのかも。

ラスボスが己を知らずに「ラスボス」に戦いを挑む摩訶不思議な世界。それがこの世の真理なのか?(笑)。

人生を創造しながら自分なりの真理を探求する

この世界は、いろんな分野に分かれて、その道のスゴイ人たちが「真理」を説いてます。

ということは、人それぞれに信じたい解釈を採用してもいいんだと思えば、必死に追い求めなくてもいいのかな、なんて思ったり。

ただ、どうしてもスゴイ(と言われる)人たちを、無意識に上に置いてしまう癖がついてる気がするんですよね。

そもそも、真理の探求は、答えを見つけることだけが目的じゃなくて、その過程で、自己理解を深めることが重要。誰かの説く「真理」に振り回されずに、自分の経験に基づいた「真理」を見出すことや、その真理に決して縛られないことって大事だと思います。

だからこそ、私は今日も、自分なりの真理と向き合いながら生きてます。





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