こんにちは、emuです。
子供の頃の私は、多少の違和感を感じつつも、両親や先生たちを模範にしてきたように思います。
そして、大人の反応で「自分はちゃんとできてる」「間違っている」と判断していました。
そんなこともあり、その基準から大きく外れるような人には、物凄い嫌悪感を抱くこともあり、バッサリと関係性を切ってしまうこともありました(笑)。
ところが、社会に出たら、なぜか「正しい」はずのことのほとんどが覆されてしまい、「大人って何なんだろう」「大人から教わったことって意味あったのかな」なんて思うように…。
今回は、ふと「自分は良い大人になれたのだろうか」と気になり、これをテーマに書こうと思います。
「大人」って、なんなのさ
この年になって思うことは、私を含め、大人は必ずしも正しいわけではないし、中身が成長していない場合もあるということ。
それは、娘の「今日の学校での出来事話」を聞いていても、日々感じることです。
理由も聞かずに怒ったり、自分のことを棚に上げたり、自分ルールを押し付けたり、ごまかしたり、拗ねたり、察することができなかったり⋯。
はっきり言って、単に年取ってるだけじゃないかと思うんですよね。
それに、実家で両親のちょっとした喧嘩の様子を眺めていても、「あれっ?二人ともこんなに子供っぽかったっけ?」と思うほど、実に幼稚な理由でモメているわけです(笑)。
そういう私自身も、心当たりがありすぎて、度々反省することがあります。
なぜなら、「自分が正しい」「いい加減な人間こそ悪だ」なんて、自分の正義を振りかざしてしまうことがあるからです(教育の賜物)。
だから、私は「良い大人」とは言えないかもしれません(笑)。
幻想と現実
子供の頃「大人」に描いていたのは、ただの幻想でした。
「私は周りのいい加減な人たちと違うんだ」と完璧を目指すほど、自分の至らなさに意識が向いてダメ出ししたり、周囲の人の未熟な部分も許せませんでした。
そう思い込んでいた当時は、かなり自分や他人を追い込んでいたと思います。
「器」と「年齢」
「大人」なんて、ただの「枠組みのひとつ」で「言葉の表現」。
重要なのは、「人としての器の大きさ」なんだと思います。
そのためには、いい意味で「開き直ること」が必要なのかもしれません。
それは、幼稚な自分を受け入れると同時に、「お互い様」だと捉えられるくらいの心の余裕を持つということです。
精神的な未熟さは、無自覚に表れるものだと思います。それを理解できているかどうかが、「ちゃんとした大人になれるか」の分かれ道なのかも…。
「私は大人なんだぞっ!」なんて子供たち相手にエラそうにしても、子供はちゃんと、こちらの器を見抜いているんだと思います。
娘曰く、「お母さんは、他のお母さんと比べて、まだマシな方だと思うよ(マシって⋯)」だそうな(笑)。
親の私が言うのもなんですが、娘と話していると、その器を感じさせられることがあります。結構、教わることが多くて、どっちが大人かわからないんですよね。
ほら、鬼滅の刃の竈門炭治郎やヒロアカの緑谷出久だって、「人生何周目だよっ!?」ってツッコミたくなるくらい中身が出来てるし、10代を甘く見ていたらだめですね(アニメやん 笑)。
器の大きさに、きっと年齢なんて関係ないんでしょう。
だから、私は今日も、開き直って生きています(笑)。