こんにちは、emuです。
子供の頃の私は、多少の違和感を感じつつも、両親や先生たちを模範にしてきたように思います。
それは、大人の言う通りにすれば褒められるし、「自分はちゃんとできてる」って自信を持てたからです。
真面目にしていれば、「ちゃんとした良い大人」になれると本気で思ってました。
だからこそ、「理想の大人像」から大きく外れるような人には、物凄い嫌悪感を抱くこともありました(社会人になってもね)。
でも、「大人」って、何をもってして「大人」なんではたしてしょうか。私は、「良い大人」になれたんでしょうか⋯(笑)?
50歳手前のいい大人が、今更ながら考えてみました。
「大人」って、なんなのさ
この年になって思うことは、私を含め、大人は必ずしも正しいわけではないし、中身が成長していない場合もあるってことです。
それは、娘の「今日の出来事話」を聞いていても、日々感じることです。
理由も聞かずに怒ったり、自分のことを棚に上げたり、自分ルールを押し付けたり、ごまかしたり、拗ねたり、察することができなかったり⋯。
はっきり言って、単に年取ってるだけなんですよね(笑)。
実家で両親のちょっとした喧嘩の様子を眺めていても、「あれっ?二人ともこんなに子供っぽかったっけ?」と思うほど、実にしょーもない理由でモメているわけです(笑)。
自分にも心当たりがありすぎて、「やっちゃってんな〜」と、反省することもあります。
それに私は、「自分が正しい」「いい加減な人間こそ悪だ」って本気で思っていたから、ずいぶんと自分の正義を振りかざしていたと思います(笑)。
そういう意味では、私は「良い大人」とは言い難いわけです。
幻想と現実
子供の頃は、大人の教えを守れば「良い大人になれる」「良い大人こそが人として完璧なんだ」って思っていたんですけど、それは幻想でした(笑)。
「私は周りのいい加減な人たちと違うんだ」って完璧を目指すほど、自分の至らなさに意識が向いてダメ出しすると同時に、周囲の人の未熟な部分も許せなかったんですよね。
大人になるって、こんなにもしんどいものなんだって思うくらい、自分を追い込んでいたと思います。
「器」と「年齢」
「大人」なんて、ただの枠組み。「人としての器の大きさ」の方が重要なんだと思います。いい意味で、「開き直る」ことが必要なのかもしれません。
それは、子供っぽい自分を受け入れると同時に、お互い様なんだと捉えられるくらいの心の余裕があるってことです。
精神的な未熟さは、無自覚に表れるものだと思います。それを理解できているかどうかが、「ちゃんとした大人になれるか」の分かれ道なのかも。
「私は大人なんだぞっ!」って、子供にエラそうにしたって、子供はちゃんと、こちらの器をわかってるんだと思います。
娘曰く、「お母さんは、他のお母さんと比べて、まだマシな方だと思うよ(マシって⋯)」だそうな(笑)。
親の私が言うのもなんですが、娘と話していると、その器を感じさせられることがあります。結構、教わることが多くて、どっちが大人かわからない(笑)。
ほら、鬼滅の刃の竈門炭治郎やヒロアカの緑谷出久だって、「人生何周目だよっ!?」ってツッコミたくなるくらいだし、10代を甘く見てたらだめですね(アニメやん 笑)。
器の大きさに、きっと年齢なんて関係ないんだろうな…。
そんなわけで、私は開き直って生きていきます。