心理学を応用した文章で感動させたり、AIで大量の記事や動画が作成できる時代に、私が発信する意味はあるのかなって感じることがあります。
読まれるための内容や装飾・編集のパターンみたいなものも共有されてて、読者や視聴者の目がどんどん肥えてるし、稼いでるだとか有名だとか、発信者のバックグラウンドで反応(読者・視聴者数)も変わったりしますもんね。
だったら発信なんてやめりゃいいじゃんって思われるかもしれませんが、自分でも謎なくらい「書きたいから書いてる」としか言いようがないんです、今は。
そりゃあ、いっちょ前に書いたものを読んでもらいたいって欲求もありますよ(笑)。
でも自分らしい発信って、なんなんでしょうね。
偽りの使命を帯びた代弁の代償
ブログを始める前は、オンラインのコミュニティに参加してました。
相互フォローが暗黙の了解みたいな感じだったから、投稿すればそれなりに読んでもらえてたんです。
このブログを読んでくださってる人は、なんとなく感じ取ってるかもしれませんが、私は結構真面目で熱苦しいヤツなので、気付いたら「代弁者」みたいになっちゃってたんですよね(笑)。
いつの間にか、自分で何も言えない人たちが「そうだそうだー!!」ってコメント欄で盛り上がるようになってました。
それまであまり理解されることがなかったから、嬉しさも相まって、何も言えない人たちを庇ってあげなきゃって思い込むようになってたんです(性格的なものの影響も強いですけど)。それに、自己価値を見出したかったんだと思います。
結果、何が起きたかと言うと、何も言えない人たちからの「手のひら返し」でした。求められるままその人たちの言葉を代弁したことでちょっとした問題が起きて、言葉を発した私だけが孤立したんです。
当時は良かれと思ってやっていたんですが、今思えば自業自得ですよね。
さっき冒頭で「今は」って含みをもたせたんですけど、私は感受性が強いばっかりに、自分の問題でもないことに踏み込んじゃって、別に書かなくていいことを偽りの使命感で書いてたんです。
何者かになろうとせず、ただありのままの自分の言葉を発するだけで良かったのに。
コミュニティを去った後は、既存のブログサイトを利用したり、自分で立ち上げて書いては消してを繰り返してました。
今度は自分の内側にあるものだけを書くことにして、ようやく、自分の中でバランスが取りやすい今のスタイル(真面目とざっくばらんを使い分ける)になったんですけどね。
やっぱ、発信する意味はある!
たとえ「ためになる発信」に意味があるのだとしても、自分のためになっていないなら、書く必要なんてないと思うんですよね。
そもそも、嫌々書くとか書かなきゃと思い込んで書くなんて、精神衛生上よろしくないわけです。
伝えることが自己表現としての手段なら、多くの人に届くかどうかは別として、言葉を置いておくことには意味があるんじゃないかって思います。
心理テクニックてんこ盛りの文章より、飾らない言葉が心を振るわせてくれたり、気付きを与えてくれることもあるんですよね。
それは別に、私の気持ちを意図して代弁してくれてるわけじゃないのに。
だから、やっぱり発信することに意味はあるんだと思います。特に、リアルに会話がない時こそ、代わりに文字にすればいい。私はそれで救われてます。
私の世界にようこそ
自分の世界に通じる小さな入り口を置いておく。
そんな感覚で発信するのも、いいんじゃないかと思います。私はそのつもりで、ブログへの入り口をちらほら設置してます。
私は感動を伝えるのは下手くそだけど、必要な人に変化を促すことができるかもしれません。なぜなら、私はリアルで周囲がザワつくくらい、安定を覆す女だから(だそうです 笑)。
それに、その人が目を向けたくない自分自身の何かを、無意識に刺激するようなところもあるみたいです。
だから、私の価値観でいろんな刺激を与えるかもしれませんが、ご自身の本音との向き合いにご活用ください。
このブログのテーマは「自己探求」なので、ピッタリかと(笑)。
私はこれからも、自分の考えていることをネットの世界に転がしていこうと思います。