こんにちは、emuです。
以前、娘が「学校に行きたくない」と言った時のエピソードを書きました。あの記事に関連して、ふと思い出したことがあります。
ある日、娘がYouTubeで一つの動画を見つけました。それは、学校に行かずに自分たちの道を選んでいる、同世代の子どもたちの日常を映したものでした。
そのとき私が抱いた最初の感覚は、動画の内容への純粋な反応ではなく、「見つけてしまった」という、どこか後ろめたいような戸惑いでした。
「してしまった」
自分の中からこぼれ落ちたこの言葉に、私は少し立ち止まりました。
娘が新しい世界を知ることは、決して悪いことではありません。それなのに、なぜ私は不都合なことのように感じたのか。
それは、私自身が「娘が感化されること」をどこかで恐れていたからです。
動画はいくつかありましたが、娘はそれらを毎回、食い入るように、そして興味深そうに眺めていました。
私はその隣で、なんて声をかけるのが正解だろうかと悩みながら、しばらく一緒に画面を見つめていました。
伝わってくるものがありました。
時折、画面に向かって否定的な独り言を呟きながらも、その奥底には、諦めと複雑な憧憬が混ざり合った「いいな」という気持ちが透けて見えたのです。
動画を否定するのは、何か違う気がする。けれど、手放しで「そうだね」と同調することもできない。
この問題に対する感覚は、私と夫の間でも少し違っていました。
夫は「学校は、何はともあれ行くもの」という規律や社会性を重視する感覚が強く、私は「行けない理由があるのなら、無理強いはしたくない」という個人の気持ちを尊重したい思いが強い。
どちらが正しいという話ではありません。それぞれが育ってきた環境や経験が、そのまま今の価値観になっているのだと思います。
ただ、子育てという地続きの日常の中では、その小さなズレが、摩擦を生むこともありました。
ある動画を見終えた後、私は娘にこう尋ねました。
「これを見て、どう思った?」
娘は少し考えてから、ぽつりと答えました。
「……だって。行かなきゃだめじゃん。」
その言葉を言わせているのは、私たち夫婦の空気感や、社会の視線だったのかもしれません。
「多様性」という言葉が社会に溢れる中で、親としてどう折り合いをつけ、どう声をかけていくべきか。
悩み抜いた末、私は一つの答えに辿り着きました。
それは、「自分とは違う考え方がある」と知ることと、それに流されることは、全く別の問題として捉えるということです。
その結果が、前回の記事に繋がっています。
「行きたくない」という本音を、日常の中でこぼせる関係性でいられたことが、彼女にとっての救いになっていたのかは分かりません。
今の娘は、「完全に行かないとは思わなかったよ。動画を見て羨ましい気持ちはあったけど。それに、学校は理不尽さを学ぶ場だよ(笑)」なんて冗談を言っています。
子どもが新しく発見した世界を、否定も全肯定もせず、まずは隣に座って一緒に覗いてみる。
そんな、答えの出ない会話を積み重ねることこそが、大切なのかもしれません。