根深く横たわる「いじめ」の構造 〜大人社会の歪みが映し出す子供たちの苦しみ〜

2025/04/19

価値観 学び 世間話

t f B! P L


こんにちは、emuです。

先週だったか、芸能人の方が、XやYouTubeで「いじめ」について言及されていました。

「大人から変わらないと、子供のいじめは無くならない」

という趣旨でしたが、確かにそう思うんですよね。

とはいえ、どう変わるべきなのかは、各々で考える必要があるんだと思います。

なぜ幼い心は傷つけ合うのか - 家庭環境と受け継がれる負の連鎖

私自身も幼少期からいじめにあっていたんですが、ずっと不思議でたまらなかったんです。

どうして幼稚園児がいじめを始めてしまうのか、そして、悪知恵をどこで身につけるのかが。

個人的に、子供のいじめは、それぞれの家庭環境(親の価値観や躾)の違いが背景にあると考えています。子供は、単にそれを映し出しているに過ぎないのだと。

もっと言えば、先祖代々放置されてきた家庭内での問題が、些細なことをキッカケに浮き彫りになっているかもしれません。

なぜなら、人間関係の始まりは、生まれ育った家庭そのものにあるからです。

だからこそ、人間関係の問題はとても根深く、そこかしこに存在しているんだと思います。

人類みな、根っこに"向き合えていない闇"を抱えている

そう考えると、イジメが根絶できないのもわかる気がするんです。

価値観の衝突と摩擦 - 他者を理解することの難しさ

人は、それぞれの価値観を持っています。でもその価値観だって、個人の中から突然芽生えるものじゃありません。

何も知らない"無垢な存在"に影響を与える者たちがいるからこそ、受け継がれたり刷り込まれたりして、何かのキッカケで芽を出すんですよね、きっと。

性格が違えば、何をどう解釈するかも違う。生まれ育った環境が違えば、当たり前だと思うことが違う。普段から取り入れている情報だって違う。判断基準も違う⋯。

他者との間に摩擦が生まれるのは、自然なことかもしれません。

いじめる側の子供は、ただ学習した通りに反応しているだけで、いじめだなんて思ってないかもしれない。

いじめられる側の子供は、自分の心の痛みに正直だからこそ傷つくし、記憶を反芻することで、相手のちょっとしたネガティブな反応も大袈裟に捉えてしまうのかもしれない。

どちらにしても、その捉え方の違いから、新たな傷を生み出していくんだと思います。

形骸化する道徳教育 - 根源的な課題へのアプローチ

学校で学ぶ道徳も、その場だけの"お利口"な感想や意見を述べるだけでは、意味がないのかもしれません。

それに、指導する側も、人生の学びを得ていなければ、別の視点を与えることもできません。

人間の根っこにある闇に触れずに意識を変えることはできないし、その闇を否定するたけでは、何も解決しないんだと思います。

そもそも、道徳的なことは、学校任せではなく家庭で教えるものだと思うのですが、肝心な両親の「心」に問題があったら、どうしようもありません。

それでもみんな、無自覚な傷を抱えながら「自分は普通」だと思い込んでいます。

傷ついたままの心を放置している大人が多いからこそ、いじめが無くならないのかもしれませんね。

いじめが残す心の傷跡 - 過去との葛藤と「今」を生きる難しさ

私はいじめが原因で、自分に自信が持てなくなっていました。

「自己肯定感の低さ」「自己犠牲的な選択」「人間不信」「恨み・怒り・悲しみなどの激しい感情にのまれること」、これらはその産物です。

それに、延々と過去の記憶を反芻するから「今」を生きられないし、「明るい未来」を描けないんですよね。

SNSで暴言などのネガティブな発言をする大人は、自分自身と向き合って心の傷を癒やすことがないまま、「被害者の自分」「間違っていない自分」を守るために、世間のいろんな出来事と「過去に自分を傷つけたもの」を重ねて叫んでいるのかも⋯。

私自身も、過去のネガティブな状況から抜け出せず、感情を爆発させていたことがあります。自分を守るために、強くあろうとして攻撃的になっていたんです。

でも「可哀想な思いをした自分の方が正しい」という考えからは、調和は生まれないんですよね。

それに、自分を傷付けた相手を罰しても、傷付いた自分の心が癒えていなければ、なんの解決にもなりません。

その経験を通して、自分はどうしたいのかに意識を向けることが重要なんですよね。

少なくとも、私はそう感じています。

「被害者」という捉え方 - 相手の視点に立つということ

私たちは、よほど注意深く意識を向けない限り、相手の立場になって考えるのは難しいのかもしれません。

だからこそ、価値観の違う他者の言葉や行動を、自分に対する攻撃だと受け止めてしまうことがあったり、「自分は悪くない。相手が悪い」と思い込むことで、ますます溝が深まってしまうんだと思います。

ある意味、「被害者である自分」を生み出しているのは、自分自身の捉え方なのかもしれませんね。

私は人生というゲームで、そのダンジョンを繰り返しプレイしているのですが、なかなか完全攻略できないでいます(笑)。

根絶させるのは難しいけど、もしかしたら完全攻略するよりも、気づきのプロセスの方が重要なのかもしれません。

そして、相手の視点に立つことができてはじめて、「良い、悪い」「正しい、間違い」が本当の意味で存在しないことを理解できるのかもしれません。

「大人が変わる」ということ - 未来への希望を育むために

"大人が変わるべき"

というのは、自分の経験から学び、新しい価値観で物事を捉えながら、自分の内面の奥深くにあるものを癒していくことだと思います。

そうすれば、引き継がれてきたネガティブな囚われがあったとしても、自分の代で終わらせられるし、変わることを恐れなければ、古い自分を脱ぎ捨てていけるのかもしれません。

そんな大人が増えれば、少なくともその人の子供の心は守られるでしょう。

「自分が変われば、相手も変わる」

なんて言葉が存在するのは、その気づきを与えるためなのかもしれません。

だから、私は今日も、囚われを手放します。



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