異世界の不思議なルール
娘の通う進学校には、私には理解しがたい「魔法の授業」があるらしい。
その名も「生徒主体のグループ授業(仮)」。
どうやら、先生ではなく生徒が授業を運営するクエストのようです。
「主体性」「協働」「アクティブラーニング」。
聞こえはいいのですが、娘の横顔を見ていると、どうも雲行きが怪しいのです。
不平等なパーティ編成
蓋を開けてみれば、その準備はすべて放課後に行う模様。
部活がある子は「参加しなくていい」という暗黙の了解。
帰宅部で、真面目で、責任感の強い子(=娘のようなタイプ)だけに、その重すぎるタスクがのしかかっている様子。
「授業」なのに、不参加が許される生徒と、その分を肩代わりする生徒。
これは協力ではなく、ただの「真面目な子への増税」ではないかと思えてならないのです。
実際、この「不平な分担」は、教育の世界では「フリーライダー(タダ乗り)問題」として長年放置されている闇です。
心理学的にも、責任の所在が曖昧なグループワークでは「逃げる人」と「背負う人」に分かれることが証明されています。
学校は社会性を学ぶ場と言いますが、これでは「搾取の構造」を学んでいるようなものです。
フリーライダーについて調べていると、こんな記事が。
筒井先生の記事を読んで、ハッとしました。
大学のその授業にフリーライダーがいないのは、学生たちが『グループワークで学ぶこと』を納得し、テーマに探究心を持っているから。
でも、娘の学校はどうでしょう。
本来はワクワクするはずの『探究』が、受験という過酷なロードレースの途中に、強制イベントとして無理やりねじ込まれているわけですよ。
刺激されるはずの探究心は、山のような課題と睡眠不足で、とうに枯れ果てています。
興味のないテーマを、不平等な仕組みで、心身を削ってまで完遂させる。
これを『主体性』と呼ぶのは、あまりに子供たちが不憫ではないか。そう思わずにはいられないのです。
(アツくなりすぎー!!笑)
真面目な子ほど「諦め」を覚える皮肉
娘に「先生に相談したら?」と言ってみたものの、返ってきたのは、「言っても仕方ない」という冷めた言葉。
自浄作用のないシステムの中で、子供たちは「変えようとするエネルギー」よりも「耐えてやり過ごす術」を先に学んでしまったようです。
「生徒」という立場上、難しいわけですから、当然と言えば当然ですよね。
(家庭内でも、あるある 笑)
先生がその不平等を知りながら容認しているのなら、それは「真面目な奴がバカを見る」という教訓を、教育現場で教えているのと同じではないか。
そんな矛盾に、学生時代の自分を重ねてモヤモヤする母なのです。
「学校は理不尽さを学ぶ所。」
事あるごとにそう言う娘を、私は見守るしかないんですよね。
なんだかなぁ…
【参考文献】