学校の「不公平なグループ授業」から考えること

2026/04/28

子育て


異世界の不思議なルール

娘の通う進学校には、私には理解しがたい「魔法の授業」があるらしい。


その名も「生徒主体のグループ授業(仮)」


どうやら、先生ではなく生徒が授業を運営するクエストのようです。


「主体性」「協働」「アクティブラーニング」。


聞こえはいいのですが、娘の横顔を見ていると、どうも雲行きが怪しいのです。


不平等なパーティ編成

​蓋を開けてみれば、その準備はすべて放課後に行う模様。


部活がある子は「参加しなくていい」という暗黙の了解。


帰宅部で、真面目で、責任感の強い子(=娘のようなタイプ)だけに、その重すぎるタスクがのしかかっている様子。


「授業」なのに、不参加が許される生徒と、その分を肩代わりする生徒。


これは協力ではなく、ただの「真面目な子への増税」ではないかと思えてならないのです。


実際、この「不平な分担」は、教育の世界では「フリーライダー(タダ乗り)問題」として長年放置されている闇です。


心理学的にも、責任の所在が曖昧なグループワークでは「逃げる人」と「背負う人」に分かれることが証明されています。


学校は社会性を学ぶ場と言いますが、これでは「搾取の構造」を学んでいるようなものです。


フリーライダーについて調べていると、こんな記事が。



筒井先生の記事を読んで、ハッとしました。


大学のその授業にフリーライダーがいないのは、学生たちが『グループワークで学ぶこと』を納得し、テーマに探究心を持っているから。


でも、娘の学校はどうでしょう。


本来はワクワクするはずの『探究』が、受験という過酷なロードレースの途中に、強制イベントとして無理やりねじ込まれているわけですよ。


刺激されるはずの探究心は、山のような課題と睡眠不足で、とうに枯れ果てています。


興味のないテーマを、不平等な仕組みで、心身を削ってまで完遂させる。


これを『主体性』と呼ぶのは、あまりに子供たちが不憫ではないか。そう思わずにはいられないのです。


(アツくなりすぎー!!笑)


​真面目な子ほど「諦め」を覚える皮肉

​娘に「先生に相談したら?」と言ってみたものの、返ってきたのは、「言っても仕方ない」という冷めた言葉。


自浄作用のないシステムの中で、子供たちは「変えようとするエネルギー」よりも「耐えてやり過ごす術」を先に学んでしまったようです。


「生徒」という立場上、難しいわけですから、当然と言えば当然ですよね。


(家庭内でも、あるある 笑)


先生がその不平等を知りながら容認しているのなら、それは「真面目な奴がバカを見る」という教訓を、教育現場で教えているのと同じではないか。


そんな矛盾に、学生時代の自分を重ねてモヤモヤする母なのです。


「学校は理不尽さを学ぶ所。」


事あるごとにそう言う娘を、私は見守るしかないんですよね。


なんだかなぁ…



emu



【参考文献】

つつい・めでぃあ【フリーライダーのいないグループワーク:京都工芸繊維大学リーダーシップ基礎1】