こんにちは、emuです。
人生の悩みをどうにか解決したいと強く願っていた頃、私は初めて哲学や精神世界(スピリチュアルや宗教など)の分野に救いを求めました。
膨大な情報の中から、「即効性のある正解」を見つけなければと、がむしゃらに探し回っていたこともあります。
でも、結局それらの知識は、私をただただ混乱させるばかりでした。
なぜなら、これらの分野はあまりにも専門的で、私には難しすぎたんですもん(チーン 笑)。
芋づる式な世界
何か一つ学ぶと、まるで芋づる式に「学ぶべきもの」が増えていくんですよね。
占星術を学んでいたら、次はタロットにも手を出してしまう…みたいな(笑)。
あれこれ調べていると「人生のレベルを上げるためには、この修行が必要だ!」と言わんばかりに、次々と情報が飛び込んできます。
それに、「初級レベルだと未熟なのかな…」なんて、自分の理解度を、ついつい見えない誰かと比較していました。
挙句の果てに、方法論にこだわりすぎたり、理解を急ぐあまり、かえって悩みを深めることもありましたね。
結局、いろんなジャンルの情報が 「ちゃんぽん状態」になって悪酔いして、気づけば 「ふりだし(現実)」 に戻ってる…そんなパターンの繰り返しでした(笑)。
完璧を求めて本来の目的を見失うのは、哲学や精神世界の 「あるある」かもしれません。
「エゴ」の捉え方
スピリチュアルな教えの中には、「私は存在しない」とか「エゴ(自我)を手放せ」といった言葉が出てきますが、「どっちなんだい!?」と混乱するのは、私だけではないはずです。
これらの言葉は、心理学、哲学、宗教など、様々な分野で深く議論されているテーマなんですが、その解釈は分野によって全然違うんですよね。
実際に、占星術には「自我の1ハウス」という概念がありますし、哲学者によってもそれぞれ言ってることがバラバラです。
もちろん、それぞれを個別に理解しようとすれば、わからなくもないんです。
でも、「たったひとつの正解」を外に求める限り、ずっとモヤモヤしてしまう。
だから私は、自分が「採用したい解釈」を取り入れることにしました。
私はこの世界で「emu」という固有名詞を持って存在しているし、エゴ(自我)は、人間関係を築いたり、自分を守ったりするためには必要なものだと捉えています。
なので「私は存在するし、エゴは手放す必要はない。でも、他者に押し付けてはいけない」というのが、今の私なりの答えです。
とはいえ、その時の状況や価値観によって解釈は変わるものだし、自己成長の中で、物事の理解度も変化していくはずだと考えています。
「宗教勧誘者」VS「宗教家」
厄介だなと思うのは、「誰の言葉なのか」によって、重要度をコロッと変えてしまうことです。
例えば、自宅に訪問してくる「宗教勧誘の人」と、有名な「宗教家」。同じ宗教の話でも、どちらの言葉が重要だと感じますか?
きっと、ほとんどの人が「宗教家」って答えると思うんです。
同じように、その人のバックグラウンドで判断する現象は、あらゆる場面で遭遇するんじゃないでしょうか。
だからこそ、歴史的に有名な哲学者や、より知名度が高く、たくさん持っている人(経済的、社会的地位など)の教えや言葉が「正しい」と感じてしまうのかもしれません。
「持っている人」に意識を向けてしまうのは、この世界が物質世界である以上、仕方がないことのかもしれませんね。
哲学やスピリチュアルな教えも一つの価値観
今起きていることの原因を「前世やカルマのせい」にするのも、「自分なんてない」と捉えるのも、引き寄せの法則が作用していると思うのも、「〇〇は、✕✕である」と定義するのも、万人にとっての正解ではありません。
それらしい答えが多いからこそ、私たちは彷徨って、つい誰かの答えに依存してしまうんですよね。そして、依存するからこそ、騙されてしまうこともあります。
もし、人生迷子だと感じるならば、自分なりの答えを持って、独自の哲学を構築しながら生きることが大切なのかもしれません。
わからないことを理解しようとする姿勢は大事ですが、今はわからなくても、焦ったり自己否定したりする必要はないと思います。
もしかしたら、その「理解しなければ」という思い自体が、無意識に刷り込まれた価値観かもしれないんですから。
だから、私は今日も、自分なりの答えを大事にします。